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​イントロダクション

​概要まとめ

仏教解説

社会論

​社会

​社会(人間社会)とは、
・自己秩序同士が集まったものであり、
・実物実行や情報理解を交換しあうことをする。
 …本来一人の自己秩序がすることを、共有してよりよく実現する。
​  そのため社会の本源はどこまでも、一人の自己秩序の成すことに分解(帰結)されうる。
・協力によるメリットを生じるものであり、協力を主とする。
 例)一人では運べない木材が、二人であれば運べる。
    二人で運んで、その利益を分配し、享受することができる。
 →競争と協力の二つの在り方があり、そのバランスに多様な状況がある。

​社会の歴史(進化)

​社会とは人間以前に動物として見られる現象であり、
元々は動物組織(集団)が原始的な在り方である。
例)ボルボックスのようにただ集まっただけの組織、猿のようにリーダーのある群れ、など。

その中に人類の集団があり、それは変遷をたどってきた。いわゆる歴史がある。
いろんなものことは、時間発展的に進化していく形式にあることが多い。

​社会の形はひとつではなく、様々な形があり、
それはものによっては歴史的展開として取り上げることもできる。
一つの生きものが成長していくように、社会というものも進化という目で見がちである。

動物集団→群れ集団→首長ある部族組織→国家/身分制度→武力的身分制度→民主国家など

現代をつい唯一のすがたと思ってしまうが、社会は変遷してきたものといえる。
2千年3千年先は、1万年先はまたもっと歴史的変遷をしているかもしれない。
そういう目線を欠かさないことが、よりよい社会を知る上で大前提である。
例)武力的身分制度が現代からすれば不可逆的にありえないと判じられうるように、
   経済主体/競争主体の現代社会も、あり得ない在り方と判じられる日が来るかもしれない。
      そういう広い目線を持つということが、事実を知ろうという態度である。

 

​社会において重要なこと
 

​社会論は専門家も多く述べるところであろうが、本質的なことをいくらか記述しよう。

・社会は協力主体を趣旨とすべし
 

 社会について嘆きが言われるのは、時所を超えて常のことである。
 しかし古今東西そこに不満があるのは、ほとんど社会市民における相互不和が大きいことである。

​ 戦争は中でも顕著にわかりやすい問題であり、現在は平和を願う市民が大多数である。
 ところが個人に目を向けてみると、ほとんど多くの人が相互に誰かとの比較や競争をして、
 しかもほとんど明け暮れているといっても過言ではない。

 現代でいえば経済主義(資本主義)的な在り方からして、
 経済状況で人の価値を測りあって、
 それでもって人の力であると無意識に染み込むほど囚われ、無意識に闘争している。
 自分の収入として得た経済は自分の収入であるとし、個人主義的に他とは強力に別っており、
 少しでも自分の収入が多いように、減らされないように、という意識が相当に強く見られる。

 これは闘争的な在り方であり、
 煎じ詰めていえば「人より勝っていたい」という根底意識があり、
 「人(平均)より勝ってさえいれば、その中であれば協力してもいい」という意識があったりする。
 つまりさらに言い換えれば、「競争を主体として、協力は従としている」という態度だということである。

 ところが、そんなことでは社会は絶対に不和を起こし、あちこちに不幸感が実現することは必然である。
 社会という大きすぎる単位であるために仕組みがわかりづらくなっているから、
 小さな単位、古代的な邑や家族くらいで思慮してみれば、すぐに理解されることである。
 
 小さな邑や家族で、もし皆お互いが「競争を主体として、協力は従」という心の在り方で行っていたならば、
 例えば部族の共同生活をみんなでしている社会構造のなかで、
 兄弟姉妹間で、得た収入を再分配せずに、どこかが多いという状態であれば、
 簡単にその集団が崩壊するのは目にみえているであろう。
 或いは個人主義的に分断して行こうとしていれば、助けや協力において簡単にギスギスして崩壊するであろう。
 小さな単位であればあるほど、これは簡単に露見する。複雑な単位であるとその複雑さに目を奪われる。

 これを大きな単位にしても同じことである。
 そもそも相互に競争しあい、なるべく勝とう取ろうとしあっている二者が、平和であるはずがない。
 それは闘争のみなもとであり、大きくなったものが戦争であるに過ぎない。
 そういう心の在り方が、すでに小さな闘争戦争をそこに起こしている、ということが言える。
 これが現代にはびこる不幸感の象徴である。今勝敗が明確についておらずとも、ほとんどの人が、
 無意識にすでに争い取り合い勝とうとしあい、精神をすり減らし合っている。

 そもそも社会とは、「協力を主体として」存在するものである。
 競争(利己)を主体として、協力を利己の為に従としてする、というようなものは存在原点に反している。
 ちょうど身体を作るために食事を摂るはずが、その味などに偏って不健康な食事を摂るようなものである。
 競争を主体とする精神性がある限り、社会は気付かず存在原点に反し、必然的に破壊的な場となる。
 反対にいえば、社会にとってまず重要なことは、「協力が主である」という精神性=理念を最基盤とすること、
 そこに大前提が尽きるのである。
 

© 2023 沙門 圓寂。Wix.comを使って作成されました

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